■김일성의 아이들 「金日成の子どもたち」 〇〇〇--
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2020年に公開された歴史ドキュメンタリー。
1950年代、朝鮮戦争で家族を失った数千人の孤児が
北朝鮮を通じ東欧諸国に集団疎開し、数年間の保護と
教育を受け、北朝鮮に帰国した。
これは、当時、北朝鮮で「委託教育」事業と呼ばれた
活動で、旧ソ連の要請により実現した、旧共産圏に
おける国際連帯・北朝鮮支援活動の一環でもあった。
このドキュメンタリーは、韓国(例えば南朝鮮出身孤児ら)
ともかかわりのある「委託教育」事業の歴史を掘り起こす
べく、ブルガリアやルーマニア、ハンガリー、ポーランド
などで関係者や関係機関を訪ね、証言の聞き取りや史料の
調査・収集を行った記録だ。
この映画で「ヲタク」の印象に残ったシーンは3つ。
△当時覚えた「金日成将軍の歌」を朝鮮語で歌うブルガリア人老女2人(映画より)
一つ目はブルガリア人の2人の老女が当時、戦災
孤児らとの交流を通じおぼえた「金日成将軍の歌」を、
懐かしみながら朝鮮語で歌ったシーン。
孤児たちの多くは、政府が準備した専用の寄宿舎に
暮らしながら、現地の学校に通うなど、現地の子ども
たちとも密な交流を持っていたのである。
二つ目が、30年以上かけてルーマニア語の朝鮮語
辞典を完成させたルーマニアの元教師の老女。
△朝ル/ル朝辞典を完成させた老女(映画より)
彼女は、委託教育事業当時、教師として孤児たちの
教育を担当しながら、ルーマニアに派遣されていた
北朝鮮の教師と恋に落ち、一旦は結婚して北朝鮮に
暮らしながらも、突然、夫が消息不明になってしまい、
やむを得ず、2歳の娘を連れ母国に戻らざるを
得なかった過去を持つ。
彼女の夫が党から炭鉱行きを命じられ、消息不明に
なった時期は、北朝鮮で主体思想による金日成個人
崇拝(独裁)が確立し、排外主義的な風潮が高まった
時期と重なる、という。
帰国以来、彼女は、政府や国際赤十字社などを通じ、
北朝鮮当局に夫の消息を問い合わせ続けているが、
60年近くが経過した現在に至るまで、当局からは
何の返事ももらえないまま。
彼女は86才になった現在も、夫の無事を信じ、
夫との再会を待ち続けている・・・。
彼女が朝鮮語の辞典づくりに取り組んだ動機も、
「夫がルーマニアに来た時に困らないように」で
あったというから、ますます切ない。
そして、「ヲタク」の印象に残った最後のシーンが、
1950年代、東ヨーロッパを歴訪した金日成主席の
映像。
△東欧の朝鮮人戦災孤児らを慰労に訪れた金日成主席(映画より)
現在の北朝鮮の最高権力者の髪形(極端なツーブロック
風?)が、明らかに祖父の若かりし日の髪形をまねた
ものであることがわかる。
(終わり)
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若き金日成主席の髪形
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